誰もが知っている戦国時代の英傑、織田信長。。。
ドラマになり、映画になり、そしてゲームにまで、死してなお後世のイノベーションに作用し生き続けています。
なぜこれほどにまで人気を博するのか。。。
何事も有言実行した強固な信念、天才と狂人の間は紙一重を彷彿させる強烈な個性、ドラスティックな改革と革新、窮地をチャンスに変えてきた戦略、これらが複合して形成されたカリスマ性、そして天下統一を目前にした非業の死…
そんな信長の常軌を逸した物語に強く魅かれてしまい、ずいぶんと前ですが著名な歴史小説に心を躍らせました。
コンシューマーゲームなどの影響で、ともすれば鬼神のイメージが強そうな信長ですが、現実は直接的にも間接的にも知力、体力を尽くした決死の戦いが多くありました。
☆今川義元
田楽狭間(田楽ケ窪:愛知県豊明市)に輿(こし)をとめて休んだ今川義元を急襲し、勝利した桶狭間の戦い(1,560年 信長26歳)。。。
義元軍1万余(2万とも)、信長軍わずか2千。
即効性の秘策はなく、通常であればもみ潰され、服従か滅亡の選択をしなければならなかった織田信長。
数の論理で義元が慢心・油断したのか、はたまた付近の農民に進物(しんもつ)を献呈させて田楽狭間の地に義元を休息させた信長の智謀・知略なのか、さらには天候が急変して凄まじい豪雨が義元軍の判断を鈍らせた天の加護なのか…
幔幕(まんまく)を張り巡らし、勝利を確信して談笑していた義元直轄5千の兵は、信長軍に不意を突かれてなすすべもなく敗走し、今川義元は討ち取られました。
当初計画どおり義元が輿をとめずにそのまま進軍して大高城に入城していたら、信長にとって千載一遇のチャンスなど巡ってくることもなく、信長の歴史も義元の歴史も、なにより戦国時代の歴史自体が、いや日本の歴史が大きく変わっていた可能性があるような出来事でした。
☆武田信玄
鬼神・信長にも恐れていた人物がいました。その名は武田信玄。。。
幕府再興を念願とする将軍足利義昭と、自ら乱世の世を終焉させ天下統一を念願とする織田信長は次第に対立色を強め、義昭は職権発動により密使を飛ばし信長包囲網を築かんとしていました。
北近江の浅井(あざい)長政、越前の朝倉義景、畿内および伊勢長島の本願寺、武装した比叡山延暦寺山門衆、そして三好義継の残党などの敵対勢力に加え、ついに甲斐の虎が立ち上がります。
敵には絶対にまわしたくなかった相手、信玄。
二重三重の政略結婚を企て、憂い無きよう備えてきた信長でしたが、齢(よわい)50にして信玄は上洛を決意しました(1,571年、信長37歳)。
対信玄に兵を割けない信長でしたが、同盟軍である三河の徳川家康が身命(しんめい)を賭して信玄軍に挑みます。
その間信長は、知力を尽くし勅命を請うて浅井・朝倉軍と和を講じ、日本中の仏徒の反感を買うことも辞さない覚悟で叡山の武装僧侶を焼き討ちし、長島の本願寺勢力と戦い、まさしく四面楚歌の状況下で奔走し続けていました。
対する信玄は、背後の上杉謙信が慣例のように戦を仕掛けてくるために進軍がままならず、徳川軍とこう着状態が続いていたのですが、信玄52歳の1,573年、謙信への対応を早々に済ませた巨大な上洛軍は満を持して再進発します。。。
(上記は山岡荘八歴史文庫 織田信長を参考にしました)
織田信長の歴史物語はとにかく面白い。
面白いのはその人間性や天下統一の浪漫だけではなく、多くの著名な戦国武将と接点があったことも寄与しているのではないかと思う今日この頃です。。。
誰もが知っている超有名人・織田信長ですが、歴史小説に描かれた人間像に触れることで彼の魅力が一層高まりました。
(写真はすべて清州城です)
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