聡敏神社(そうびんじんじゃ)…
江戸前期「鬼日向」と恐れられた歴戦の勇士、備後国福山藩藩祖“水野勝成(みずのかつなり)1,564~1,651年”が、城跡の東側に厳かに祀(まつ)られています。
結城合戦にて結城氏朝・持朝父子は討ち死にし(結城城炎上とともに自刃という説もあるようです)、結城家は断絶します。
一方、結城氏朝・持朝父子がかくまった足利持氏(関東公方)の3人の遺児らの行方は…
春王丸と安王丸は幕府軍により捕縛され命を絶たれますが、戦場に居らず唯一生き延びた永寿王丸は、のちに元服して足利成氏と名乗ります。
足利持氏(成氏の父)が永享の乱で自刃してから鎌倉府は廃絶していましたが、将軍足利義教が嘉吉の乱(1,441年)で暗殺されると鎌倉府再興の動きが活発化します。
そして1,449年、鎌倉府再興が幕府に承認されると足利成氏は関東公方として鎌倉に帰還するのです。
さらに足利成氏は、自身らを援護してくれた結城氏朝・持朝父子の恩に報いるべく、結城氏朝の四男ともいわれる成朝を取り立て、結城家もここに再興しました。
戦国の世もひと段落した豊臣政権の下では、豊臣秀吉の養子秀康(徳川家康の次男)が第17代結城晴信の後を継いで結城秀康となり、10万石あまりを領したそうです。
その後結城は江戸幕府直轄領となりますが、福山藩藩祖(初代藩主)水野勝成のひ孫である水野勝長が1,700年に能登から結城に移され、結城藩主となります。
備後国福山藩藩祖 水野勝成が1,651年に逝去したあと、水野家は堅実に世襲し福山藩は発展していきますが、1,697年に第4代水野勝種が急死、つづく勝岑(かつみね)もわずか2歳で死去する不幸が重なり、水野家は改易となってしまいます。
しかし、第4代水野勝種の又従兄弟(またいとこ:父母のいとこの子)にあたる水野勝長が、養子として水野家の家督を継ぐことを許されます。所領は福山藩ではなく能登西谷藩、結城藩へと順次移封されますが、小禄ながら幕末まで結城藩水野家として存続しました。
こういった流れを紐解くと、結城聡敏神社(そうびんじんじゃ)には水野勝長が祀られていてもおかしくはないですが、水野家宗家でもある初代水野勝成の武功・功績を偲んで聡敏大明神として祀られたそうです。
結城聡敏神社は、福山聡敏神社から分霊勧請(ぶんれいかんじょう)して建立された神社です。
俳人・画家の与謝蕪村が江戸時代に結城の地を訪れた折、次の句を残していきました。
…ゆく春や むらさきさむる 筑波山…
霞や霧などで色合いが褪(さ)めた(=さむる)筑波山を遠望して謳ったのでしょうか。。。
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