弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城…現在も残っている天守閣、現存天守は全国12ヶ所にあります。そのうち国宝に指定されているのが松本城、犬山城、彦根城、姫路城で、これら4ヶ所の天守は“国宝四城”と呼ばれています。その松本城を先週訪れてきました。
松本城は、信濃守護家の小笠原氏が永正元年(1,504年)に支城のひとつとして築城し、当時の名称は深志城(ふかしじょう)でした。戦国の世の流れ、城主は入れ替わり立ち代りでこの城を治めます。
甲斐の武田信玄により小笠原長時が没落し、武田氏は深志城を拠点に信濃を支配します。小笠原長時の三男・貞慶は、織田信長に仕えて武田勝頼と戦い、天正 10年(1,582年)に武田氏が滅亡すると信長から信濃の一部に所領を与えられます。本能寺の変による信長死去後、小笠原貞慶は徳川家康の家臣となり、 天正11年(1583年)に家康から深志城を与えられ、城名を松本城に改めたそうです。
その後、貞慶の長男・秀政が小笠原家の当主となりますが、天正18年(1,590年)豊臣秀吉による小田原征伐後、秀政は下総古河へと移り、代わりに石川数正が入城し、数正とその長男・康長が治めて松本城の基礎を固めたとされています。
江戸幕府成立後は、大久保長安事件により石川康長が改易され、小笠原秀政が城主に返り咲きます。
大阪城と同様の漆黒に彩られた松本城は、威風堂々としたたたずまいです。
さて、話は少し横道にそれますが、松本には、信越本線と篠ノ井線経由で長野駅から移動してきました。長野までは新幹線ですが、今回は長野駅から天竜峡行きの“快速みすず“に乗車しました。約1時間強の乗車時間です。
JR松本駅から徒歩で松本城に向かいました。途中、女鳥羽川(めとばがわ)にかかる千歳橋(せんさいはし)を渡ります。女鳥羽川という名称は 、信濃国松本藩第3代藩主水野忠直以降に、松本藩城下の基本図として位置づけられた松本城下絵図で定着したそうで、それ以前は庶民の間で御堂田(めどうだ)川と称されていたそうな。
千歳橋のたもとにある松本警察署大手交番です。城下町らしい外観です。
大手交番に向かって右側、女鳥羽川沿いには、露店風のお店が立ち並ぶ縄手(なわて)通りがあります。築城の際の測量に用いた縄を水縄手と呼び、外堀を監視する道を“水縄手道”と呼んだそうです。
女鳥羽川にはフィー、フィーという鹿のような美しい鳴き声を放つ“カジカガエル”が生息していたことから、写真のようなシンボルキャラクターが飾られています。
江戸時代の末期には、全国に186城の城郭が存在していましたが、明治維新時の旧物破壊の風潮により、残念なことに多くの城が失われました。総面積12万 坪(39万m2)と言われた城郭は、外堀・総堀の多くが埋め立てられ、天守も売却されて取り壊し寸前になりますが、市川量造氏等により買い戻されて難を逃 れました。そして城郭保存の風潮が次第に高まり、昭和4年3月に施行された国宝保存法以降、全国で22城が国宝に指定されました。松本城は昭和5年に史跡 が、昭和11年に天守が指定されています。その後第2次世界大戦で名古屋・大垣・和歌山・岡山・福山・広島の6城は天守を失い、松前城は被災しました。文化財保護法による国宝や重要文化財に指定されている天守は、現在12城のみとなっています。
内堀に架かっている朱塗りの橋“埋の橋”を渡って城内に入ります。松本城の観覧料は、個人の場合で600円でした。
本丸御殿跡には“清正公駒つなぎの桜”があります。
熊本城主加藤清正が江戸からの帰りに松本城に立ち寄った際、当時の城主 石川玄番頭(げんばのかみ)康長が「騎馬二頭のいずれかを差し上げましょう」と言ったところ、「貴殿の目利きで取り立てた駒を、我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。二頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。」と言って二頭とも頂戴して帰ったといいます。そのときの駒を繋いだのがこの桜の木だそうです。
開放的な造りの“月見櫓(つきみやぐら)”からの眺めです。
天守6階は、有事の際に最高幹部の司令塔(城主の座所)となるところです。畳を敷くことも可能で、階段部を除き京間16畳になります。
松本城天守の階段は、1~6階まで計7ヶ所設けられています。それぞれの階段は互いに離れていて、かついずれの階段も55~61度の急勾配です。
写真は4階と5階を結ぶ階段を5階から見下ろしていますが、蹴り上げが約40cmもあります。上りのときには、普段の意識でいたので数回つまづきました。
天守2階からの本丸御殿跡眺望です。
休憩所で一息入れました。。。
コメント