地元に住んでいながらほとんど足を運んだことがありませんでした。
春には桜祭で賑わいを見せる結城城跡…いまは新緑たけなわの時節です。
結城城は南北朝時代(1,336~1,392年)の動乱期に築城されたとされる平屋建ての城で、その遺構、城塁と空堀のもの寂しいたたずまいに、“兵どもが夢の跡”の句にあるような栄枯盛衰を思い浮かべました。
結城城が難攻不落の城であったことは、1,440年の結城合戦が物語っています。
室町時代1,438年、関東公方の足利持氏と関東管領上杉氏の対立※により勃発した永享の乱で、敗れた関東公方の足利持氏は自刃します。その持氏の三人の遺児を奉じて挙兵した人物が結城城主の結城氏朝・持朝父子です。
※室町幕府は関東の鎌倉に出先機関を設けました。その出先機関の長官が関東公方(鎌倉公方)です。関東公方には補佐役が付いていて、その補佐役が関東管領でした。
京都の将軍と関東公方(鎌倉公方)の対立は足利持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに始まっていましたが、第六代将軍足利義教(よしのり)が任命した関東管領“上杉憲実(のりざね)”と対立した持氏は、将軍側を相手に戦いました。
ときの将軍 足利義教は、上杉憲実と関東管領代行の上杉清方らに結城氏追討を命じます。駿河・信濃の武将や兵を総動員すること十万の軍勢が結城城を取り囲みました。
しかし結城城は簡単には陥落しません。結城城の建つ高台周辺の湿田が足かせとなり、籠城する兵士の士気も衰えを見せず、幕府軍は長期に渡って苦戦を強いられます。
粘りに粘った籠城10ヶ月、兵糧も尽きた結城氏朝・持朝父子は最後の力を振り絞って打って出、討ち死にします。
のちの戦国時代を予兆する反幕府勢力の顕在化でもあり、幕府軍精鋭十万を相手に長期籠城にて抗った“結城合戦”が、結城城を世に知らしめることとなったそうです。
“結城合戦タイムカプセル埋設記念之碑”です。タイムカプセルの中身はいったい何でしょうか?
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