[前回のつづき]
既成概念にとらわれない発想…
古き慣習に束縛されない奇抜なアイデア…
門戸開放した人材登用と適材適所での活用…
新しきことの積極的な取込みとその利用…
戦国時代はどの武将も波乱に満ちた人生を送っていますが、織田信長の生き様、残した足跡は圧倒的にドラマチックです。
2万とも3万とも言われた今川義元の大軍を僅か2千の兵で打ち破った桶狭間の戦い。
義元が慢心し、結果的に桶狭間にて5千の兵で休息をとったところを急襲しました。
(あえて義元が慢心するよう信長が謀略したという説もあり、例えば信長自身がうつけの殿様で偽りとおし流言を狙ったこと、農民から貢物を献上させ田楽狭間で休息を取るよう仕向けたこと、間者をまぎれこませ逐一情報を収集し機をうかがっていたことなどが挙げられています)。
信長は、戦国時代有数の猛将、智将と恐れられた武田信玄、上杉謙信とも一戦を交えています。
後に全国を平定し征夷大将軍となった徳川家康とは少年期に面識があり(信長の方が9歳年長ですが)、今川義元亡きあとは同盟関係にありました。
時の第15代将軍足利義昭が信長包囲網を築きあげ、義昭に呼応した武田信玄が上洛を決めたときには、さすがの信長も驚きと焦りを隠し得ませんでした。
(信長は、予てより信玄との対決は避けるべく、一族による婚姻政略を着々と進めてきた経緯があり、信玄とはどちらかと言えば友好関係にあったところの上洛決行でしたので)。
しかしながら、徳川軍が懸命に足止めすべく交戦している最中、信玄は持病が悪化し撤退を余儀なくされ、その道中に亡くなりました。
気骨と男気にあふれた越後の名将 上杉謙信も、信長との戦いで劣勢であった本願寺顕如から援助を乞われ、信長と敵対することになります。
当時、敵に囲まれて八方ふさがりの状態であった信長は、謙信の上洛決意で窮地に立たされ、もはや八方破れを覚悟した矢先、上洛遠征を目前に謙信卒中で明星地に堕ち、信長は九死に一生を得ました。
聖域 比叡山の焼き討ち…
信長に領地を奪われたことに反感を抱き、信長と敵対していた朝倉・浅井連合軍を匿(かくま)うなどして武力の争いに介入してきた比叡山延暦寺に対し、中立の勧告に従わなかったことから信長は焼き討ちを断行しました。
その対象は、僧兵以外の老若男女、大人子供問わなかったため、阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。
仏教の聖地、学問の発祥の地である比叡山への破壊行為は、当時信長の家臣であった明智光秀にとって限度を超えた暴挙に思えてならなかったようです。
(この比叡山の焼き討ちに関しては、信長に対する肯定的評価と否定的評価に分かれるようです)。
また、朝倉・浅井連合軍の浅井(あざい)長政とは、信長の妹 市姫(お市の方)を嫁がせて同盟を維持してきたにもかかわらず、長政の父 久政が朝倉との絆を選んだがためにそれに従わざるを得ず、浅井長政は信長を裏切ることとなりました。
比叡山焼き討ちののち、信長軍進攻により浅井家は滅亡、お市の方は未亡人となります。
そのお市の方の三人の娘には、豊臣秀吉が寵愛した“茶々”、2代将軍徳川秀忠の奥さん(継室)であり3代将軍家光の母でもあった“紅”などがいます。
カリスマ性をいかんなく発揮してきた信長ですが、時には激しすぎるとも言える気性が災いし、人によっては無慈悲に映るような指示・命令を下すこともありました。
徳川家康の嫡子 信康には、信長の長女 徳姫を嫁がせてありましたが、信康と徳姫が不仲であったことに加えて、信康の生母 築山御前(つきやまごぜん)が武田勝頼に内通していたことが発覚し、信長は信康に切腹を命じました。(築山御前は家康の命令により殺害されました)。
明智光秀などは信長の重臣でしたが、信長の指示に納得がいかない場面や、信長のプロペラヘッドについて行けないことも多々あったようで、信長からの度を過ぎた叱責に対する疑心暗鬼がストレスを増大させていきました。
このように、表向きは忠誠を誓っていても、内心では憎悪の念を抱く方向に気持ちが変化していくようなことがあり得たのではないかと思えます。
強大なリーダーシップ、強靭な精神力、強烈な個性…
活殺自在な統治手法で全国平定を目指しましたが、明智光秀の謀反により道半ばで命を落としました(本能寺の変)。
細身・ 細面の肖像画からは想像もできないパワーの持ち主、織田信長…
自分の上長には絶対御免ですが、第三者の立場で彼の生き様を観覧すればするほど、惹き付けられ夢中になってしまう武将は他には見当たらないように思います。。。
だから、山岡荘八著書の織田信長版を是非大河ドラマで制作し放映してください。
そのときは人気タレント俳優などで視聴率を稼ごうとはせず、実力派俳優で固めてください。
どうかよろしくお願いいたします…<(_ _)>
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