JR甲府駅のすぐそばの“舞鶴城公園”…
明治期に入って城内の主要な建物は取り壊され、明治6年(1,873年)頃に舞鶴城は廃城となりました。その後、勧業試験場や葡萄(ぶどう)酒醸造所が設立されたり、中央線(現JR東日本中央本線)の開通と甲府駅の開業で城跡は分断され、残された史跡が明治37年(1,904年)に「舞鶴公園」として開放されたそうです。公園面積は6.2haですが、かつては20haほどの広大な城郭でした。
内城の部分のみが城跡としての景観を保っている舞鶴城ですが、それでも、来県時“スーパーあずさ5号”の車窓越しに見えた稲荷曲輪(いなりくるわ)の石垣と稲荷櫓(いなりやぐら)は、当時を彷彿させる面影を有しています。
“舞鶴城”は江戸時代後半頃につけられた別名で、古くは“甲斐府中城”、“一条小山城”、“赤甲城”などと呼ばれていました。
江戸時代の初期は、徳川家直系が城主となる特別な城であり、宝永元年(1,704年)に当時の城主徳川綱豊(のちの第6代将軍徳川 家宣)が江戸城に移ると、柳沢吉保(よしやす)が甲府藩主として城主になり、譜代大名の城として整備されて大きく発展したそうです。
その後、家宣の享保年間に再び直轄領とされて甲府勤番(江戸幕府の役職)による支配下となりましたが、いずれの時代も甲府統治の重要な拠点でした。
ちなみに柳沢吉保は武田家の遺臣であり、第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受け唯一大名化した一族とのことです。
↑芝生の部分が本丸跡で、天守台石垣が残っています。ただ、天守が建てられていたかは不明だそうですが、高層建築の遺構(残存物)の存在が指摘され、松本城に匹敵する天守の可能性もあるそうな。。。これもまた浪漫ですね。
↓同じく本丸跡の“謝恩碑”です。明治末期に山梨県に下賜(かし)された恩賜林(おんしりん)を記念して大正11年(1,922年)に建立されました。山梨県内では過去に大規模な水害が相次ぎ発生し、明治40年および明治43年の大水害を契機に、明治44年(1,911年)に県内の御料林約16万4000ヘクタールが無償で山梨県に下賜されたそうです。
この記念碑は碑高19mのオペリスク型です。オベリスクは、古代エジプトに多く製作され神殿などに立てられたモニュメントの一種で、四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に細くなった直立の石柱です。
↓左下の櫓(やぐら)が稲荷櫓です。明治に取り壊されましたが、平成16年(2,004年)に復元されました。
天守台からは、甲府盆地の周囲の山々を一望できます。
新宿行き“ス-パーあずさ”の甲府駅到着の待ち時間30分を利用し、急ぎ足で公園内を散策しました。山手門、山手渡櫓門、天守曲輪、数奇屋曲輪、稲荷曲輪なども観ておきたかったのですが、残念ながら時間切れでした。
話が前後しますが、その日は“南甲府駅”が目的地でした。甲府駅からJR東海の身延線に乗換えて3つ目の駅です。乗車時間は約8分。水戸線同様、列車の本数が少ないのが特徴です。
帰りの“スーパーあずさ”車内。まもなく新宿駅に到着です。新宿駅からは湘南ライン快速宇都宮行きに乗換え、小山駅に向かいました。
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