信長をたずねて三千里/岐阜公園と岐阜城_後篇

岐阜城からのすばらしい眺望を後にして下山の行程を綴ります。
橙色の数字をマップに付しましたので参考にしてください。

(前篇はこちら、中篇はこちらをご覧ください。)

(6)羽柴秀吉の馬印_千成瓢箪(せんなりひょうたん)発祥の地

木下藤吉郎と千成瓢箪
『永禄10年(1,567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。
この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、千成瓢箪発祥の地とされている。』

江戸時代中期に書かれた読本(よみほん)“絵本太閤記”によれば、稲葉山城の裏谷 瑞琉寺山の間道に分け入って城の搦手(からめて)口に廻り込んだ木下藤吉郎らは、腰に携えていた瓢箪を竿の先端に取り付け、それを振って正面側の味方に合図したそうです。
それを見た信長軍は正面大手門側から総攻撃を開始し、搦手口側からは藤吉郎らが奇襲を仕掛けると、斉藤龍興(たつおき)は抗うすべなく早々に降伏しました。

(7)二の丸城壁跡

岐阜城から少し下ると、曲輪(くるわ)のひとつ“二の丸”跡がありました。曲輪(くるわ)は、兵の駐屯施設または駐屯敷地のことで、有事の際の重要な防衛線です。

1,600年、関ヶ原の戦いの前哨戦で石田光成の西軍についた当時の城主 織田秀信は、攻め上がる東軍の福島正則や池田輝政に対して二の丸で抗戦しましたが、最後には自刃寸前、池田輝政の説得により開城、降伏しました。
(織田秀信は、本能寺の変で信長とともに亡くなった織田信忠(信長の嫡男)の嫡男。幼名は三法師。)

(8)天下第一の門

岐阜市が記念事業として建立した冠木門(かぶきもん)のようです。

『永禄10年9月初日、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移した。稲葉山の城郭を再建するとともに城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図った。また信長は「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一へ踏み出す城となった。信長の大志を讃えてここに冠木門を建て、その偉業を伝える。』岐阜市

(9)七曲り登山道

“七曲り登山道”は岐阜城への大手道です。

登りの“瞑想の小径(こみち)”でくたくたに疲れたので、ロープウェーで下山するかどうかとても悩んだのですが、せっかく来たのですからやはり足を使って下りることにしました。

“七曲り登山道”はよく整備されています。頂付近は石段が敷いてあり、中腹から麓にかけた土の路も整然としていました。登りが“瞑想の小径”で、かつ“七曲り登山道”が下りなので余計にそう感じたかもしれません。

“七曲り登山道”の道のりは約1,900mです。下る側からするとまだまだですが、登山する側からすればもうひと踏ん張りの通過点でしょうか。

途中、このような休憩場所もありました。この季節は蚊にさされないように注意しなければいけません。

(10)岐阜公園

ようやく岐阜公園まで戻ってきました。

写していませんが、エネルギー補給に「でんがく処むらせ」という茶屋でみたらし団子を2本食べました。うまかった~。。。

公園の外れにこのような母子像もありました。

岐阜公園近辺にはまだまだ観覧するところが多くありますので、また訪れる機会があったらそのときに巡ってみたいと思います。

(完)

(前篇はこちら、中篇はこちらをご覧ください。)

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